昭和40年08月03日 朝の御理解



 「ローマは一日にしてならず」と言った様な言葉が御座いますですね。大ローマ帝国が誇った、そのローマもです、一日でああなったのではないと言うことです。段々言うなら、日勝り月勝りに、年勝りに立派なものになって行ったんです。甘木の教会などでも先代が亡くなられて、もう何年ですかね、十年ぐらいなられますでしょうか。大体ああいう、ご承知のように立派な教会でございますが、それでも、親先生が亡くなられてから、陣容そのものは組まれておったでしょうけれども。
 例えば教会の、外観と言った様なものはその後において出来たんです。見事出来とります。あの屋敷が広うなったのも、ついこの頃らしい。あの見事な、それこそ見事な塀が出来ましたのも、ほんのついこの頃で御座います。入口のお手洗いでも、お便所でもあんなに見事になったのもつい最近ですね。一つ一つしかも一緒じゃありません。一つ一つこの、かっちりしたものが出来上がって来よる。
 なるほど、初代の徳だなと言う事を思わずにはおられません。と言うていくらお徳を頂いておられたからと言うて、初めからあー立派ではなかったと言う事なんです。椛目の場合でも、やっぱりそういう一つのお道順をおうて、段々おかげを頂いていかなければならんです。裾細リではいけませんから、段々、言わば、大の字を付くような、ね、今度はあちらが合楽という事になれば、大合楽と言うね。
 先生も大先生であり、信者の中にも、例えば甘木のご信者さんの中に、平田さんていう方がある、その方を「平田先生」なんて、言う様な事を皆が言うから、そしたら「平田先生」何て、信者でそんなことを言うちゃいけん、なんて言う様な事があったんです。そしたらこの頃は「大平田」て言うそうですね。平田先生とは言わんけれども、その大平田と。いわゆる大平田と言われるようなです。
 大の字が付くような、段々おかげを、ご信者さんでも先生でも、もう親先生と言うだけの呼び方では、ちょっと小さい。だからその上に大の字をつけてから、大(オオ)先生とか大先生とかとこう、言われるようなです、段々おかげを頂いていかなければならない、又それに共のうて、信心の内容もそうでございますと共にです、ならお広前の内容、外観でもそうして立派になって行くのでございますからね。
 昨日は、私午前中、善導寺の教会の夏のご大祭で御座いますから、殆ど一週間位まで掛りましてから、お供え物を整えさせて頂くために、私はおかげ頂いた。帰りましてから早速総代会並びに業者の方、それからこちら側の設計士の古屋さんと。あすこ10何人かの者が集まって色々と設計のミスと、言わばミスですね。井上組のミスと言えば井上組のミスですね。また私共の祈り不足といや、やはり私共の祈り不足ですね。
 まぁ言うなら、煎じ詰めれば「親先生がどっか間違うて御座るばい」と言う様な意味合いにおいての再検討であり、再検討をを致しました。成程大変な本当に私共の祈りが、私の祈りが、信心が足りなかったと、言う様な事で御座いましたけれども、その事が又おかげに元になるなぁという感じの中に、円満に様々な事が、運んで参りました。まぁそこへ、久富組が、井上組の下請けとしてから、基礎の方を受けたまわりました。
 もう殆ど住宅、それから本館、いわゆるお広前の、大変なコンクリーで固める基礎がもう出来とります。ところがですね、それを全部今度はまた、堀くり返してですね、全部やり替えねばならんと言った様な事になてるんです。初めの間は住宅だけだと言うよったけれども。勿論それは井上さんも大変責任を感じてですね、井上組の責任を感じておりますから、向こうの方でそれをなさるわけですけれども。
 けどもそこが、そういう事にヒントを得て検討いたしました、この全面的に。あちらへ現場に参りましてから、ところが本館の方も、これ一応変えなければならないこと、もうとにかくいけんのじゃないけれども、これは見苦しいと言う事になって、あまりに東側の方に寄り過ぎてしまっておる。それでもう何時何時までもその悔いを残すよりも、この際一つやり変えて貰おうと言う様な事になりました。
 いうなら一番初めから。大変なことでございますよね。そのことが前の晩に話が付きましてから、いわゆるそれから総代さん方が、設計士の古屋さんに内装的なことを尋ねられると、まとめて総代さん方の意見も。第一お広前の方は、私の感覚というか、私の思うておる通りに、私の説明を、私の思いを説明を聞いて頂いて皆に、それで、けれどもここだけは、お広前だけは私の行き方で、一つやってもらんならんと。
 と言うて私が説明させて頂いたら幸いにです、今まで右左になって中々受け入られなかった事が全面的にです、皆んなその私の考えておる事が迷いと言う事じゃなくて、古屋さん達もそれを認めて下さる。あちらの井上組の方ももう実際に、古屋さんがそれをそういう風に変えましょうと。なら側にはもう大工も来ておりますから、そこはもう一つ一つ話がつきましてね。
 それも何故私が私の思い、私のこうでなからなければならないと言う事を主張するかと言う事を、私はまずもう気分新たにしましてから、その事からこの事へ移って参ります所を夕食を境にして、新たにそこんところを検討して頂いて、調べて聞いて貰ったわけなのです。私が全面的にあそこをして頂いております、私はあちらへまいって、皆さんが沢山でなさっておられましたが、私はこちら日陰なので一服しておりました。
 そしたら神様から急にこんなお知らせを頂いた。ここですたいねあそこですたい。あそこをですね、ここはもう宗教センターみたいなんです。あの文化センターって言うでしょう。いわゆる文化の中心地という意味なんです。宗教センターって言うんですから、あらゆる宗派が、あらゆる宗教がです、まぁお道のあれで言うならばです、全教一家的な信心がここから、言うなら発祥すると。
 (  ?  )の中心にあらなければならん、それが語弊があるばらば、神愛会と言うてもよい。神愛会のセンターと言うことになれば誰も文句はなかろうけれどもです、実際なら椛目の信心の内容というものを、私共が頂かせてもろうて、思わせて頂くことはです。確かに椛目で私が日々伝えておる事はですね、キリスト教の人であろうが、仏教の人であろうが、何々教の人達であろうがです、その人達がもう一つ。
 もう一段信心を深めて行こうとされる方達がです、皆はぁそれが本当だと言わねばならない様な事を、ここでは私が皆さんに伝えておると言う事です。例えて言うならば御取次ぎとかご結界とかと言う、お道独特の言葉を使わずにですね、そんなのを誰にでも合点が行くようにして解き明かしたらです、あらゆる宗旨宗派に通じることだと。しかも今の宗教人の方達がです、もう一段信心を深め行こうとなさるならばです。
 椛目の御理解を頂くことによって、その信心、その宗教がもっともっと深いものに、生きたものになって来るだろうということなのです。なるほど、そういう意味合いにおいて、宗教センターと私は思うんですね。ですから現在の椛目では、とんでもないことなんですけれども、そういう意味合いにおいてです、椛目が、ローマ一日にしてならんのでございますから、そういう言わば、基礎的な外観的なそのお広間、または会堂の今度のご造営ということなのですからね。
 どこのお寺さんを模すること、その真似することでなければ、何処の教会のお道の教会の、その風にする。要がないと。どうでも一つやはり、現在の神愛会のお広前として、独特なもの。しかもそれは、色んな感覚とか角度から見ましてもです、一つのモデル教会に、今後の…。今現在教団では、(  )何年ぐらいの教団ですか。金光教が出来ましてから。これと言うて金光教独特のものがないのです。
 今、今度の御本部の会堂のご造営のことも、そのんところで、まあ行き悩んでおられるようです。どう言う風に、新しい金光教独特のお広前を造営するかと言うことに。もう第一、奉祭様式から、お神様をお祭りする様式から変えなければ金光教的ではないと言われておるわけなのです。そういうような中にあるのだから、椛目の、(全面的によいと言われんでも?)、「はー椛目のあそこは、実に金光教的である」。
 しかも何が何宗であってもです、なるほど信心の稽古をするのに相応しいと言ったようなものがです、椛目のお広前だけには溢れておらなければいけんとです。そういうような気持ちで言うと、随分あっちこっち教会も見て回った、大きな立派な建物も見て回ったけれども、私の気に入るのは一つもなかったと、私が言うんです。勿論、古屋さんが設計された、言わば、どちらかと言うたら、私よりだけれども、新しい感覚の方ですけれども、あなたの設計も私は一つも気に入るところはないという。
 私は。そこを全面的にです、ここは私が隠したいと言うところを一つ聞いてもらいたいと言うて、私が、もう内殿、外殿、神の間、取次ぎの間。又は御広間と氏子の間というものをです、もう私の関わることが本当だと言ったような意味でです、まぁ少し型破りの、第一ご結界の間なんて言うのが今度ございます。お道の信心はもうご結界が中心だから、奉祭様式なんかでも、今までの大きな甘木とか、久留米あたりの大きな教会の奉祭様式とだいぶん違った、もう大変砕けた、教会、神殿なのです。
 例えて言うならば、神様の方を大きくお祭りして、霊神様の方は、一段低くして、小さくと言うのが普通のしきたりでしたけれど。私は、最近では、その言われておりますことの中にですね、神様も霊神様も一緒に合併してよいじゃないかという、説が大変強く出されております、本部では、一本にね。しかしそれではあまりだと言うようなまた、反対説もそれにあるのです。ですが、そういう意味合いでですね。
 勿論霊社もあれば神様もあり、けれどもそう言う所に私は色々、神様にヒント頂いたことを全部言わして頂いたんですけれども、それはまぁ素人の私が考えたことですから、玄人の皆さんが聞かれたら、おかしいところもあろうけれども、そこんところを又一つ訂正して頂きたいというておりましたから、他ん所は別ですけれども、お広間又お広前に関連のある所だけは、言うなら私の意思が通じた訳なんでございます。
 おかげで、昨夜ももう、皆最後の方達が帰られるのは一時でございましたでしょうが、それまでに熱心に、色々検討されたんですけれど。今朝からは、又御神前に座らせて頂きましたら、神様から頂きますヒントのことを何か、まだこれから先の先のことでございましょうけれども、大変いいヒントを頂いておるんです。例えば、この入口何かですね。それが、私は今日例えば頂いておるような事が一つ一つ。
 そういう内容が一つの陣容がです、整うと同時に、外観もそういう私が、今日頂いておるような風に整うて来ると、なるほどこれは宗教センターに相応しいものが出来るなあと言うようなことを感じます。そこでです、そういうようないよいよおかげを頂くために私共はどういう信心を、言うならさせて頂いたらよいか、いよいよ信心の稽古をさせて頂こうという人達がです、ありとあらゆる宗派宗教の方達が来ても。
 又は見てもです、聞いてもです、内容に触れても、なるほどっとこう合点が行かれるような信心をさせて頂くためには、私共がどういう信心であらなければならないかと、言うことになるわけなんです。そんなことを私、痛感いたしました。そしたら神様からご心願にですね、「お相撲さんの横綱ですかね、横綱の土俵入りといったような様子」を頂くんです。第一横綱をつける前にですね。
 腹が大きゅうならなきゃならんな、と言うことでございます。腹がこげん大きかったっちゃあなた、そりゃや、越中ふんどしのごたるとをはめとるだけじゃいかんですもんね。男のストリップのごとなりますたい。ふんどしを締め上げた上に、あの横綱が張られてから見事なのです。この「しめ」というのはですね、「しめ縄」と言うのはですね、どういう意味かと言うと、あれはね、一生懸命と言うことだそうです。
 もし例えば土俵上でですね、投げ殺されても文句はいいませんというほどの一生懸命なのだそうです。言うならばです、ただ腹が大きいだかじゃいかんと。例えば今言うように、初めからひっくり返してよかよか、もういっちょやり直さんのと、まぁ言うならばちょいと人が聞きよって腹の大きい先生。結局私のそのことになったんですけども、私はもう躊躇も考えもしませんでした。相談申しなさいと私直ぐ申しました。
 言うらば、まぁ周りから聞きよったら、本当に腹の大きい先生だと言うかもしれませんですね。それだけでは駄目だという事。ふんどしを締め上げられると同時にです、やはりそこに一生懸命の横綱がはられておれなければ駄目だと言う事。こういうことになって来るとです、まぁだまぁだ私共の信心がです、これはみなさんがです、現在の永瀬さんにしろ、福島さんにしろです、現在のままではいかんのでしょうが。
 それこそ、ローマ一日にしてはならないのですけれども、その基礎を作るには、現在皆さんなのですよ、皆さんのお宅でも。ね。ですからまず皆さんがです、豊かな大きな心を頂かせてもらわなきゃいけん。言うなら太っ腹にならなければならないと。それはんなら、(       )その度胸がクソ度胸であってはなりませんしね。一つ大きな心に皆さんがなる事の信心修行がです、ね、
 どんなものを頂いても障らないだけのドン腹と言うものを信心によって鍛えて行くということと同時にです、ね、それが何処までも、神様に打ち向かうひたすらのです、信心精進が一生懸命の横綱的なものでなからなければならないっという事。段々、これから椛目もおかげ頂いてまいりますでしょうけれどもです、本当に名実ともにです、宗教センター的な信心の内容をです、ね、
 いよいよ立派なものにしていくために、私、それから会員の皆さんが、いよいよ真の信心をです、椛目流に信心を締め遂げられたらです、大きな意味での信心が分かるだけではなく、大きな言わばドン腹も出来て行くおかげになって来るだろう。同時にいくらドン腹が大きかってもです、もう一生懸命を欠いだら、もうそれはだらしのないものなのです。そうでしょうが。ね、どんなに大きなドン腹で、ほりゃ横綱のごたると言うてもです、お関取さんのごたると言うてもです。
 私共が一つ想像してごらんなさい、いっちょう自分が(しめとるというような)姿を、これではいけません。どこまでも一生懸命の横綱がはられるところの信心をまず、信心の基礎土台させて頂いて。ね、一つ一つ、言わば大合楽を目指しておかげを頂いて行きたいという風に思うのでございます。一つ信心の基礎になるものを、ならどういう信心させて頂いたらと言うことは、ただ今申しましたような、ことでございますですね。
   おかげ頂かれました。